シヤチハタといえば、朱肉をつけずに押せる認め印。
それは「バンドエイド」や「ボンド」のように一般名詞として通用するほど仕事や暮らしに普及しているといっていい。
捺印を求められて
「シヤチハタでいいですか?」
と聞いたことがある人はきっと多いはずだ。
しかし、シヤチハタというのは会社名で、商品には「Xスタンパー」という立派な名前がある。世界で初めてスタンプ台のいらないスタンプの開発に成功したとき、未知を表す「X」にちなんで名付けられたものである。
今でこそ、朱肉やスタンプ台をつけずに押せる印鑑・スタンプは当たり前になっているが、開発当時は、その名のとおり、まさに未知のものだった──。
シヤチハタの前身である舟橋商会は大正14年に創業されている。その頃のスタンプ台は表面からのインキの蒸発が激しく、使うたびにインキを補充しなければならないという不便なものだった。
創業者の舟橋高次氏は、その不便さを解消するために研究を重ねて、インキ塗布が必要なく、いつでも使える「萬年スタンプ台」を開発して会社を起こしたのである。
「萬年スタンプ台」は地道な販売努力が実を結んで順調に売上を伸ばし、昭和27年頃には「シヤチハタ」がスタンプ台の代名詞となるほどに成長している。シヤチハタは、このスタンプ台で会社の基礎を築いた。
ちょうどその頃、高次氏は次の新しい商品の開発に着手した。それはスタンプ台の必要のないスタンプの開発という、ある意味で自社の看板商品を否定するようなものだった。しかし、高次氏には、スタンプ台だけでは、この先、生き残っていくことができないという危機感とともに、技術者として夢を追究したいという思いがあった。
結果的に見ると、高次氏の判断は正しかった。「Xスタンパー」の登場は、捺印あるいはスタンプの新たな可能性を広げることにつながったからである。しかし、開発までの道のりは決して平坦ではなかった。完成までに10年間を要するという、長く険しいものだった。
シヤチハタの開発陣が考えたスタンプ台の必要のないスタンプの構造は、インキを含ませたスポンジをスタンプの中に組み込んで、そのインキがスタンプを押すとゴムを通過して印面にたどり着くというものだった。
この構造を完成させるためには、インキが通る細かい孔が無数に開いたゴムをつくらなければならない。
しかし、そんなゴムをいったいどうやってつくればいいのか。ゴムの専門家へ相談に行ったり、いろいろな試行錯誤の結果、ゴムを練る際に、あらかじめ水溶性の細か い粒の物質を混ぜて、後でその物質を水に溶かしてゴムに孔を開けるという方法が最も可能性が高いことがわかった。
次の課題は、細かい粒の水溶性物質を見つけ出すことである。デンプンを混ぜたときには、成形のためにゴムをプレスするとデンプンが焦げてしまって、ゴムが煎餅のようにばりばりになってしまった。砂糖を混ぜたときには、成形時に熱を加えると砂糖が溶けてしまって孔ができなかった。
何度も試験を繰り返した結果たどり着いた物質は塩だった。塩は水には溶けるが、熱には強いという特徴があった。試しに塩を混ぜてみると、連続した細かい気孔ができた。塩の粒子をふるいを使って均一にすれば、ゴムの孔の大きさも制御できる。こうして多孔質のゴムは出来上がった。スタンプの開発に塩が決定的なポイントとなったという意外性は、ものづくりの面白さを再確認できるエピソードである。
その後、ボールペンのインキをヒントに、スタンプ内にあるときは乾かず、固まらず、印を押すとすぐに乾く染料系のインキも開発。この結果、開発陣が一体となって研究開発に取り組んだ世界初のスタンプ台のいらないスタンプが完成した。昭和40年には、その第1弾として、ビジネス用の「領収」「請求書在中」などのXスタンパーを発売し、3年後にはお馴染みのネーム印を世に送り出した。
しかし、発売当初は、取引相手から
「スタンプ台を否定するような商品をどうして出すのか」
という批判もあったそうだ。これに対して、
「Xスタンパーのような便利なものがあるから捺印業務が残るのであって、そうでなければ、捺印という文化はサインへと変わってしまう可能性がある。また、認め印レベルなら、従来商品との共存は十分できる」
という企業としての信念を持ち、取引相手を説得したという。
ところが、シヤチハタにとって、このような否定的な意見よりも、もっと重大な問題が押し寄せてきた。発売直後からクレームが殺到して、商品が次々と返品されてしまったのである。
最も多かったクレームは、しばらく使っていると、油でにじんでインキが薄くなってしまうというものだった。
これはインキの粒子とゴムの孔の大きさのマッチングが適正でないため、インクが濾過されて色の成分と油分に分離してしまうことが原因だった。
また、スタンプを紙に押してから2、3日すると、インキが薄れてしまうというクレームもあった。これはインキの耐光性の問題だった。そのほかにも、紙粉がつまってスタンプが押せなくなってしまうなど、いろいろな問題が噴出したのである。
シヤチハタでは、これらの問題を、インキの改良からゴムの孔の大きさの再検討に至るまで、あらゆる方策を試して、ひとつひとつ解決していった。当時は、つくっては返品の繰り返しだったそうだ。そうした努力の甲斐があり、次第にXスタンパーは認められていくようになる。
シヤチハタの名前が一気に広まったきっかけは、昭和45年に開催された大阪万国博覧会だった。
パビリオンに設置したXスタンパー(来場記念として押すパビリオンの形のスタンプ)が、こんな便利なものがあるのかと評判を呼び、それを境に売上げが急増していったのである。
そして、もう一つ、Xスタンパーが普及していった要因はインクの改良だった。発売当初にクレームが殺到して以来、シヤチハタは常により良いものをめざしてインキ、ゴムの孔の見直しを何度も実施してきた。
そのなかでエポックとなったのが、染料系インキから顔料系インキへの転換である。染料系インキは粒子が細かく、紙への浸透性はあるものの、耐光性に劣る。
一方、顔料系インキの粒子は大きく紙への浸透性は劣るが、耐光性に優れている。つまり、顔料系インキへの転換は、にじみにくく、しかも印影の長期間保存を目的としたものだったのである。
もちろん、インキの変更に伴って、インキに適合するようにゴムの孔の数・大きさも改良されたし、より耐久のあるゴムも開発された。
一方、製造工程においても改善は進んだ。たとえば、ネーム印は3000近くの名字を既製で揃え、それ以外の名字は特注になる。以前は、別注の場合でも、既製のものと同様にプレス加工していたために納品まで時間がかかっていたが、あらかじめ塩を抜いて乾燥させたゴムに直接名字を彫るレーザー加工機を開発、それによって納期がかなり短縮された。
こうした改良・改善を続けた結果、ユーザーの信頼が得られ、シヤチハタの名前は一気に浸透していくことになった。
また、シヤチハタが培ってきたインキやゴムなどに関する技術は、ネーム印や一般事務に使われるスタンプだけでなく、より専門的なところや工業の製造工程など、いろいろな分野に活躍の場を広げていった。
たとえば、新幹線の中で車掌が切符に押すスタンプ。あれはスタンプしてすぐに乾くような即乾性インキが使われている。また、普通の光のもとでは見えないが、特殊な光を当てるとスタンプの印影が見えるというものもある。
そのほかにも、ガラスや金属へのスタンプ、寒冷地専用のスタンプなど。それらはインキもゴムも一般のものとは違った特殊なものが使われている。
だが、なかにはスタンプを押すことができなかったものもある。
「冷凍食品にスタンプを押したいという依頼があったが、溶けると水と一緒に流れてしまうためできなかった」
と水野さん。
このように、その取り組みを列挙していくと、スタンプ、捺印の可能性を常に追求しているシヤチハタの企業姿勢が、より鮮明に見えてくる。
さらに、将来、事業の柱の一つとなる可能性を秘めている電子印鑑がある。これは要するに、コンピュータ上でも捺印ができるような仕組みである。
コンピュータと捺印というと、一見不釣り合いな関係に見えるが、これまでの習慣を変えることなく業務を遂行できる点や、誰が捺印したのか一目でわかるという視覚的なメリットがある。
「スタンプ台とインキを合体させた萬年スタンプ台、スタンプ台とスタンプを一つにしたXスタンパーと、これまでシヤチハタは2つの異なるものを一つに組み合わせることで、新しくて便利な商品を開発してきました。
電子印鑑も、その開発姿勢を引き継いだものと考えています」
と商品開発統括本部長・水野誠さんは強調する。
はたしてスタンプ・捺印の可能性はどこまで広がっていくのか。その答えは、スタンプ・捺印分野に集中して、常にX(未知なもの)に挑戦し続けるシヤチハタの取り組みの中にあるといっていい。