ものづくり王国・愛知

星野楽器株式会社

ギター、ドラムの世界ブランドをつくり上げる

■アパートの一室からスタート

ギターのIBANEZ(アイバニーズ)、ドラムのTAMA(タマ)といえば、ちょっと音楽をかじったことある人なら、誰でも知っている世界的に有名なブランドである。
ただ、それらのブランドを持っているのが日本の名古屋のメーカーであることを知っている人は意外に少ない。
音楽の世界で、その2つのブランドがあまりにも圧倒的な国際的ブランド力を持っているために、逆に身近でつくられているとは思わないのかもしれない。

その販売・製造元である星野楽器を中核とする星野楽器グループの創業は、明治41年にさかのぼる。名古屋の老舗書店である星野書店の楽器部としてスタートし、昭和4年に星野楽器店として独立した。この年にスペインのイバニーズ・サルバドール社からギターを輸入したのが、IBANEZブランド誕生のきっかけだった。

ギターの開発風景

すでに昭和10年にはギターを生産し、アメリカや東南アジアへの輸出を始めている。ただし、この頃はIBANEZブランドではなく、ほとんどが輸出先が独自に決めたブランドで販売していた。戦後の昭和30年代までは、このような、いわゆる下請のギター製造メーカー的な状態が続いたが、相手先のブランドで売っていては、販売戦略はすべて相手任せだし、利益も非常に少ない。何とかしたいと考えていたところに、あるアメリカのバイヤーから、一緒に良いものをつくらないかと提案を受けた。

これをきっかけにして、それまでのバイヤーを通じた販売から、IBANEZのブランドを掲げ、アメリカ・フィラデルフェアに拠点を設けて自らが楽器の小売店へ直接販売する活動へと転換していくことになる。それは昭和40年代に入ってからのことだった。

その当時の様子を、総務部長の吉田昇治さんは次のように語る。「まず、日本から担当者2人がアメリカに渡り、事務所兼倉庫のアパートの一室からスタートしました。
その後、現地の人を雇い入れ、しばらくして私が加わりました。
当時、私はまだ入社したてで、右も左も分からない状態でしたが、とにかく電話帳を見て、そこに載っている何々楽器店を手当たり次第にまわれと言われました」。
言われたとおりに楽器店をまわってみると、最初は相手にされなかったが、何回か通ううちに話が聞いてもらえるようになった。
時々、アドバイスもくれる。そのうちに、何本かを買ってくれるようになったという。

■ミュージシャンへ飛び込みで営業

吉田さんたちの仕事は、そうした営業活動だけではなかった。日本から船で1~2カ月をかけて運ばれる間に、ギターのボディは傷つき、弦は錆び、ネックは反ってしまう。当時のギターのボディは十分な乾燥がなされていなかったためである。それを一つひとつ検品して、弦を張り替え、傷ついたボディは磨き、ネックの反りを修正し、最後にチューニングをしてから、楽器店をまわり納品して、注文を取り、また検品して…。そうしたことを繰り返しているうちに、あそこのギターは値段のわりに品質が良いという評判がたつようになった。

音楽雑誌への広告宣伝を始めたことも功を奏した。最初は、マイナーな雑誌に、単にギターをずらりと並べただけの地味な写真を使って広告を出したが、宣伝関係の仕事をしている人から、これではだめだ、若者向けの雑誌にカッコイイ広告をしないと意味がないとアドバイスされた。そこで、雑誌を替えて広告してみると、次第にIBANEZのブランドは認知されていくようになる。それは、アメリカに進出して3~4年経った頃だった。

ジョージ・ベンソンのモデル

そして、もうひとつ、ブランド確立に大きな影響を与えたのが、プロのミュージシャンたちだった。憧れのミュージシャンと同じものを使いたいという心理は、音楽をやっていた人であれば理解できるはずだ。実際、プロのミュージシャンが使っているかどうかによって、ギターやドラムの売れゆきは大きく違ってくる。

吉田さんたちは、誰それのコンサートが近くで開催されるという情報を得ると、そのコンサート会場へ駆けつけて、ミュージシャンに「うちのギターを使ってみてください」と直接交渉した。それはアポイントなしの、飛び込み営業のようなものだった。
そんな突然の申し出に対して、アメリカのミュージシャンたちは気さくに対応してくれたという。

吉田さんたちがスゴイのは、むしろその後だ。ミュージシャンたちから、こういうものがほしいと注文を受けると、すぐに、それを日本へ伝えてサンプルをつくってもらわなければいけないのだが、ファックスもインターネットもない時代である。ギターの形や色はすべて電話での口頭によって日本の現場技術者へ伝えるしかなかった。

技術者はその少ない情報をもとに、いくつかサンプルをつくりあげたというから驚きである。そんな頼もしい技術者が、日本にいたのである。その後、吉田さんたちは日本から送られてきたサンプルを持って、再びミュージシャンのもとを訪ねて、ギターを選んでもらった。そうした活動を続けているうちに、ミュージシャンの間で、ユニークなギターを安価でつくるメーカーとして知られるようになる。

なかでも、最も影響が大きかったのが、ジョージ・ベンソンだった。注文を応じて、小型のギターを持っていくと、彼はそれを非常に気に入って、コンサートでよく使うようになった。決定的だったのは、そのギターを持ったジョージ・ベンソンと当時のジミー・カーター大統領が一緒に写っている写真が、マスコミに大きく取り上げられたことだった。

これで一気にブレイクし、IBANEZは世界のギターブランドの階段を上っていった。吉田さんは「IBANEZがこれほどのブランドに育つとは、当時はまったく思っていなかった」と話す。

■常に新しいセンスを模索

一方、ドラムのTAMAは、昭和37年、瀬戸市に自社工場を設立したところから始まる。当初は、ギターと同じように相手先ブランドとして販売していたが、ある時、それまでの品質を大幅に見直して、自社ブランドのTAMAとして販売することを決意する。

工場設立当初は、既製のドラムを参考に、見よう見まねでつくっていた。太鼓の胴はベニヤ板で、自転車の車輪を利用して胴に革を取り付けた。これではいけないと、専門の技術者に来てもらい、一から素材や製造工程を見直した。また、接着剤が良くなったことも、品質向上に好影響を与えた。

太鼓の胴の部分は、薄い板を何枚も張り合わせてつくるが、その際に使う接着剤の善し悪しがドラムの品質を左右したからだ。さらに、太鼓の吊り方、スタンドの安定性、フットペダルの品質など、ドラムのあらゆる部分を改良していった。その結果、販売店からその品質を認められていくようになった。

ドラムの製造現場

また、ギターと同じようにミュージシャンの果たした役割が大きかった。サイモン・フィリップス、ビル・ブラッフォード、レニー・ホワイト、YOSHIKIなど。彼らに試作品を試してもらって、音質、デザイン、フィーリングに関するデータを収集し、製品開発に反映させることで、TAMAの品質はより向上し、知名度も上がっていった。

ギターやドラムなどの楽器が広く支持されるためには、音質もさることながら、時代のセンスにフィットしたデザインや色が重要な要素となる。その意味で、ファッション産業と非常に似通っている。同社が、常に新たなミュージシャンとの接点を探し求めているのも、新鮮な感性が製品に命を吹き込むことにつながると考えているからだ。

「ミュージシャンの卵にギターやドラムを提供して、そこから得られる情報をもとに商品開発を行っています。若い人達の嗜好や感性をつかむことが、私たちにとって最も大切だからです」
と吉田さんは強調する。

■根本は適正な価格と品質

現在、ギターの生産拠点は国内では長野、海外では中国や韓国、インドネシアにある。ドラムは瀬戸の工場と中国の工場のほか台湾でもつくられている。20年ほど前から日本国内でもギター、ドラムの販売を始めたが、今もアメリカを中心とした輸出が生産の90%以上を占める。IBANEZ、TAMAともに、アメリカによって育てられたブランドといっていいだろう。

ギターの一ヶ月の生産量は約6万本。毎年、新商品を次々と投入して、商品は常に入れ替わっている。ひとつのデザインの販売数はだいたい500本が目安となっているそうだ。ほかのメーカーの動向を見ながら、いつ、どんなデザインを市場へ投入すればいいかを判断する。このように流行が変化する速さも、ファッション産業と相通ずるものだ。

総務部長の吉田昇治さん

「IBANEZ、TAMAというブランド確立に携わったひとりとして感じるのは、アメリカ人は音楽がないと生きていけない国民であるということと、アメリカは品質さえ良ければ受け入れてくれるという点です。

ゼロからブランドをつくり上げてきたわけですから、最初の頃は、IBANEZ、TAMAともにブランドで売れたわけではありません。それはやはり、価格と品質が適正だったからです」と吉田さん。

世界的なブランドとなったIBANEZとTAMAだが、そのスタートは品質と価格のバランスがとれているという製品としては当たり前の地点からだった。
そして、それは今も、2つのブランドの底流に受け継がれている。

◆愛知ブランド企業 認定番号153
星野楽器株式会社